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2008年03月24日

天璋院の生涯

大奥史上最高に不幸な女性だったという篤姫の生涯はどのようなものだったのでしょうか。


天璋院(てんしょういん・幼名、於一(おかつ)→島津篤子→近衛敬子→徳川敬子→落飾後天璋院と号す。天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)篤姫(あつひめ)は江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府13代将軍徳川家定御台所(正室、継室)となった人物である。

実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。島津斉宣の孫にあたる。

幼名・一(かつ)。本家当主で従兄の島津斉彬の養女になり源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた
将軍輿入れと継嗣問題
将軍・家定との縁組について、将軍継嗣問題で一橋派であった斉彬が篤子を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと考えたとする見方がこれまでは一般的であった。しかし、大奥より島津家に対して縁組みの持ちかけは家定が将軍となる以前からあり、芳即正の研究以降、島津家からの輿入れ構想と将軍継嗣問題は無関係であるとするのが定説となっている。

家定自身が虚弱で子供は一人もいなかったこと、家定の正室が次々と早死したため大奥の主が不在であったことから、島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。また、島津家としても広大院没後の家格の低下や琉球との密貿易問題などを将軍家との姻戚関係を復活させることで解消しようとしたと考えられる。

斉彬が篤子を養女にしたのも、健康体であった篤子を家定へ輿入れさせることを想定してのことである(篤子の名も広大院にあやかったもの)。しかし、薩摩藩主の実子であった広大院と比較して篤子自身は島津家分家の出身であり、一橋派大名からも「御台所としてはあまりにも身分が低すぎる」と言う懸念の声があったと言う。そのため、斉彬は篤子を養子とした際に幕府へは実子として届出をしている。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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